国際オリンピック委員会(IOC)のジャック・ロゲ会長が封筒から取り出し、掲げた紙に記された「TOKYO 2020」の文字。東京は2020年、1964年以来の2度目となる夏季五輪の開催を決めた。2016年開催にも名乗りを上げた東京にとって、約8年間にわたる招致活動は長い道のりだった。
今年3月、IOCの評価委員会は東京に最後の視察に訪れた。視察最終日を迎える前日の3月6日、東京・元赤坂にある迎賓館赤坂離宮「花鳥の間」では評価委員を公式にねぎらう内閣総理大臣主催の晩餐会が開かれた。
晩餐会は評価委に「東京」の最後の印象を残す、極めて重要な場。このトリを務める大役を任されたのは1人の映像クリエーター。花房伸行だ。彼、そして彼が率いるパフォーマンス軍団「enra」は、このとき、確かにIOCの評価委の脳裏に「TOKYO」の文字を刻み込んだ。東京五輪招致で彼らが成し遂げた功績は、極めて大きいといえるだろう。
日経ビジネス6月17日号に掲載した、旗手たちのアリア「世界も未知の感動を創る ~映像クリエーター花房伸行~」をここで一部加筆・修正して再掲載する。(原 隆)
舞台裏に置かれた小さなディスプレーを祈る気持ちで見つめる男がいた。普段とは違う緊迫した空気の中、これまでに体験したことのない重責が両肩に重くのしかかっている。その時、彼が背負っていたのは――「国」。
東京都は2020年のオリンピック開催地に名乗りを上げた。1964年の東京オリンピック以来56年ぶり。2016年の開催地にも名乗りを上げたが夢かなわず、国を挙げて再び挑戦した。
同じく立候補のイスタンブールを東京都知事の猪瀬直樹が批判したと報道されたことで、東京での開催は大きく後退したと言われた。だが、国際オリンピック委員会(IOC)の評価委員会が視察に訪れた3月、日本では高まる招致熱で確かに沸いていた。
視察最終日を迎える前日の3月6日、東京・元赤坂にある迎賓館赤坂離宮「花鳥の間」には、朝から張り詰めた空気が漂っていた。この日は視察を終えた評価委員を公式にねぎらう内閣総理大臣主催の晩餐会が予定されていたからだ。晩餐会は評価委に「東京」の最後の印象を残す最も重要なアピールの機会だ。
東京都交響楽団による管楽演奏が会場に流れ出し、晩餐会が始まる。首相・安倍晋三による歓迎のスピーチが始まり、猪瀬による乾杯の挨拶もそつなく終わった。
花房伸行(37歳)は高まる緊張感を隠せず、舞台裏に控えていた。果たしてうまくやれるだろうか。彼にできることはもはやない。後はチームの仲間を信じるのみだ。
クリエーターである花房が率いるパフォーマンス軍団「enra(エンラ)」はこの日、晩餐会のトリのパフォーマンスを務める大役を担っていた。メンバーは中国武術の全米大会で3度優勝した武道家、世界ジャグリング大会で3位のジャグラー、元ミス・ユニバース・ジャパンのファイナリストのバレエダンサーなど、個性溢れる5人だ。
城の石垣を次々と飛び越え、大広間を縦横無尽に飛び回る忍者。天守閣に上り詰め、たどり着いた先には――。舞台に実際に存在するのはパフォーマーだけ。そのほかはすべて演者の背後に投影されたCG(コンピューターグラフィックス)で表現されている。CGの映像にパフォーマーが正確に動きを合わせることで、城壁を上ったり、素手で大きな壁を打ち壊したりしているように見せる。観客はあたかも映画を見ているように忍者の世界に引き込まれていく。
この前衛的なパフォーマンス軍団に大役の白羽の矢が立ったのは晩餐会開催日の3週間前だ。花房は夜を徹してCG作品を作り、パフォーマーたちも足のつま先から手の平まで細部にわたる動きの確認を続けた。
ハプニングは本番当日、迎賓館で開かれたリハーサルで起きた。ジャグラーが2本のハンドスティックで操るディアボロ(こま)を落としてしまったのだ。彼のミスを花房は一度も見たことがない。静寂に包まれた迎賓館の会場に響き渡る鈍い音。本番で「落ちる」ことがあったら…。メンバーのみならず、リハを見守っていた関係者一同に緊張感が走った。
本番で彼らが打ち立てた金字塔はメディアの報道で目にした人も多いだろう。一部では「忍者ショー」と報じられていたが、彼らのパフォーマンスは間違いなくその日一番の喝采を浴びた。会場から鳴りやまぬ拍手と「ブラボー!」の声。舞台裏に聞こえてくる歓声で、仲間たちが最高のパフォーマンスをやり遂げたと知った花房は、1人、わき立つ鳥肌を抑えられないでいた。
※実際の演出のエンディングはオリンピックマークを使用。当動画は一部表現を改変している
「人ではないもの」に魅入られた幼少期
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元記事 : 日経ビジネス 配信日時 : 2013-09-09