BPM160という高速な音楽のグルーヴに合わせて、複雑で様々なを延々と踏むという「フットワークダンス」を魅せブームを巻き起こす。日本ではTOKYO FOOTWORKZがHOUSEの中に「フットワークダンス」を取り入れ話題を呼んでいる。その「フットワークダンス」を世界中に知らしめ、JUSTE DEBOUTなどでも活躍しているKING CHARLESが先日、日本に初来日。ダンスの歴史、背景や日本のダンスシーンについて語る。
- STAFF
- まずはCHICAGO FOOTWORKの歴史について教えてください。
- KING CHARLES
- CHICAGO FOOTWORKは19世紀初め頃にハウスミュージックと共に作られたものなんだ。まだ全然カルチャー的に大きくなくてクラブから流行っていったんだ。シカゴでは1人が何かを始めると誰かも同じことを始める。それがだんだんと大きなムーブメントになっていく。そのシカゴの中でも東西南北があって、シカゴの中でも違う流行が生まれてくるんだよ。1800年代初め、シカゴ発のステップが世に出ることでアフリカンコミュニティ、レイブコミュニティ、ゲイコミュニティ、すべてのコミュニティが合わさりダンスムーブやスタイルが増えていった。それの引き金はNY出身の ※Frankie Knucklesがシカゴでハウスミュージックをかけたことかな。それがデカいムーブメントになったんだ!そのミュージックはシカゴ中に広まり、多くのDJがハウスミュージックをかけるようになった。その新しいサウンドは1800年代終わりから1900年代初めにかけてGHETTO HOUSE(ゲットーハウス)と呼ばれた。そのあと、1900年代終わりから2000年代にかけて彼らはJUKE MUSIC(ジュークミュージック)に移行していったんだ。世界の音楽は変わり、それと共に世界のダンスも変わっていき、俺たちは有名なダンスムーブを続けて行って、たくさんの人がそのステップに魅了された。それで、シカゴではハウスステップがどんどん有名になっていった。先人の有名なダンサー達が作ったハウスのステップに人々はもっと注目するようになったんだ。
- STAFF
- 日本のダンスシーンについてどう思いましたか?
- KING CHARLES
- とてもいいよ。俺は何度も色んな国に行ってるけど、日本は特にレベルが高い。特にレベルが高いと思うのもフランスとあと何カ国かぐらいかな。日本人は何かを学んでそれをすごく一生懸命、真剣にやるからとてもいいよね。日本のスタイルは本当にレベルが高い。でもHOUSEのステップに関してはたくさんの人がまだまだ練習する必要があると思う。もっともっと踊りながら楽しまなくちゃ!ライフスタイルでも同じことが言える。練習するためだったりダンスの歴史を勉強するためだったりに時間を取ることが日本のダンスシーンのレベルを上げたんじゃないかなと思う。それはシカゴのハウスシーンでも同じだと言えるよ。
- STAFF
- DANCE@LIVE始めて見てみてはどうでしたか?
- KING CHARLES
- すごく楽しかったよ!全ジャンル最高!何人か自分のスタイルをつらぬいている人がいたね。彼らはすごくいい独創性を持っているよね。何人かすごくいいWAACKのダンサーとHIPHOPのダンサーがいたね。あと日本の女の子はレベルが高い。HOUSEではSHUHO、HIROがかましまくっていて驚いたよ。FREESTYLEではPOPがすごかった。レベル高い!すべてが最高にナイスだったし、みんながとてもエネルギッシュにダンスをしていたから見ていてとても楽しかったよ。逆に俺がすごくいいエネルギーを貰ってしまったよ。
- STAFF
- ありがとうございます。それでは最後に日本のみなさんへメッセージを
- KING CHARLES
- 何か新しいことに挑戦したり、何かをやり直すことを恐れないで欲しい!ダンスが好きだったり、何かが好きならそれを200%の力でやってほしい!100%でも150%でもない、200%というのがとても重要なんだ!とりあえず好きなことだけに集中して、シカゴの人たちみたいに。自分の生活や自分の好きなことのバックグラウンドを学ぶことはとても重要だよ。だってそこには歴史がある、嫌な話もいい話もたくさんあるんだけど、それが必ずモチベーションに繋がるから。日本はストリートダンスをやるには環境だってとてもいい所だと思うよ。だから集中し続けて、一生懸命好きなことをやり続けて、チームで一緒に続けて、視野を広げ続けていって欲しいです。GOD BLESS。
- STAFF
- ありがとうございました。
※ Frankie Knuckles
フランキー·ナックルズ (1955年1月18日NY生まれ )は、アメリカ のDJ 、レコードプロデューサーとリミックス アーティスト 。 彼はプロデューサー、リミキサーとしての1990年代にハウス·ミュージックの普及に貢献した。ジャンルの開発における彼の重要性のために、彼は”ハウスミュージックのゴッドファーザー”として知られている。